八戸市の文化遺産を活用した地域活性化事業 | 八戸三社大祭デジタルアーカイブ

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大事典

八戸三社大祭の理解を深める

愛宕(長者山 三社堂の後の新羅神社) (あたご)

八戸の三社堂に祭られる仏神。
正しくは愛宕権現(あたごごんげん)は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。
勝軍地蔵が垂迹した軍神として武士から信仰を集めた。(Wikipediaより引用)

後押え (あとおさえ)

八戸三社大祭行列の最後尾を歩く馬上の、裃衣裳の人。

天照大神 (あまてらすおおみかみ)

新羅神社の御祭神 八戸神明宮の御主祭神
日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神とされる。(Wikipediaより引用)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪美命(いざなみのみこと)が国土を整え万物を育て、最後に天照大神、月読命、須佐之男命の三貴神(みはしらのうずのみこ)を生んだとされる。
伊勢神宮の御祭神。

天児屋根命 (あめのこやねのみこと) = 春日大明神=思兼神

八戸神明宮の祭神
日本神話に登場する神。春日権現、春日大明神とも呼ぶ。
居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あまのみつたまてるひめのみこと)。
天の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した神。天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。
名前の「こやね」は「小さい屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる(Wikipediaより引用)

市川笑也 (いちかわえみや)

八戸市出身の女形歌舞伎役者。スーパー歌舞伎のヒロイン役。現役の歌舞伎役者。
このことから、山車の題材にスーパー歌舞伎を選ぶ山車組が多い。
山車の豪華さが一転した。冠、衣裳、簪がとても豪華。

岩山車 (いわだし)

土台が岩や山になっていて、松や紅葉などが飾られ、人形が配置されている。

倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)

新羅神社の御祭神 (稲荷明神)
日本の神話に登場する神。「古事記」では、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と表記する。
名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。
伏身稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである。伊勢神宮では、それより早くから御倉神(みくらのかみ)として祀られた。(Wikipediaより引用)

雲上山車 (うんじょうだし)

天界や雲の上の場面。山車全体が、雲で飾られ、神仏の題材によく使われる。

絵紙 (えがみ)=下絵

その年に製作する山車の完成図(下絵)

枝っこ (えだっこ)

門付の一種、山車組の門付で本来は山車と共に門付を行うが、細い小路などを音頭取り、笛など数人一団体となって歩くこと。

干支旗 (えとき)

十二支(干支)の柄が刺繍された十二本旗。

恵比寿 (えびす)

三社大祭 山車人形 古屋浅吉、丁印。
日本の神。七福神の一柱。狩衣裳で釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。

延享 (えんきょう)

日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。
1744~1747年までの期間。
この時代の天皇は桜町天皇、桜園天皇。
江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。

大澤多門 (おおさわたもん)

1834年(天保5年) - 1906年(明治39年)
八戸藩士、根井沢 悟の子として生まれ、幼名は信吾、根井沢定右衛門。
1868年(明治元年)に野辺地戦争において、八戸隊副隊長を務める。
戊辰戦争後に大澤多門と名を改め、1873年(明治6年)に八戸町戸長となった。その後、えんぶりの再興や八戸三社大祭の振興に寄与した。長者山新羅神社近くに於多福座という劇場も作っている。
晩年は階上村(現在の階上町)道仏で隠居生活を送ったと言われている。(Wikipediaより引用)
また、1896年(明治29年)長者山新羅神社と神明宮に神輿を寄与し、三社大祭の基礎を作った。まさに八戸三社大祭の生みの親とも言える。祭に風流山車を町内毎に参加させたのも大澤多門だとも言われている。

大太鼓 (おおだいこ)

長胴太鼓(ながどうたいこ)を使用している。

大麻司 (おおぬさつかさ)

神事で御払いをする神職。

大物主神 (おおものぬしのみこと)

新羅神社の御祭神
日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)。大穴持(おおなむち)大国主神の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。(Wikipediaより引用) 大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神。なお、大国主の分霊であるため、大黒天として祀られることも多い。

お還り (おかえり)

三社大祭神事最終日(3日目の8月4日)
もともとは、長者山の御霊屋より八戸街内下通りを通って龗神社へお還りになる行列。
神輿と山車、その他合同運行長者山下から三日町札の辻(ふだのつじ)までの運行。

小笠原長清 (おがさわらながきよ)

平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。
甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。
信濃守護家 小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。(Wikipediaより引用)

龗神社 (おがみじんじゃ)

青森県八戸市内丸に鎮座する八戸市内で最古と言われる神社で、歴史は約900年前の平安期まで遡る。
正しくは法霊山龗神社。
主祭神は高龗神、法霊大明神。江戸時代初期1665年(寛文5年)八戸藩が成立すると藩神の地位を得て、八戸藩総鎮守となり大名家南部氏の祈願所となる。(Wikipediaより引用)
元来、八戸村柏崎地区の産土神。創建当時は岬社(三崎、御前、御崎)と呼ばれており、柏崎、京ヶ崎、八太郎の3つの崎に由来し、当時の鎮座地は現在より南東方面(現在の八戸市内丸3丁目から柏崎方面あたり)に鎮座していたとされる。
八戸三社大祭発祥の神社である。

お通り (おとおり)

三社大祭の初日の(現在は8月1日)市役所前から神輿山車他の合同行列。もともとは、龗神社の御祭神が長者山の御霊屋に通る行列。豊作祈願と報恩を起源とする上通り八戸市街内、上通りを運行する。神社行列と山車が時代絵巻を織り成す。山車のほか、巫女行列、武者行列、法霊神楽、虎舞など多彩な行列を見せることができる。

乙名 (おとな)

町の有力者である乙名は、行列の責任者役員。裃に一文字笠を被り、脇差を差す。

お囃子 (おはやし)

大太鼓1、小太鼓5、笛(人数は問わない)で行なわれている。

音頭取り (おんどとり)

木遣り(きやり)音頭を唄う唄い方。
音頭を取ると言うところから、音頭取りと言われる。

海中山車 (かいちゅうだし)

海の中の場面。昆布やサンゴなどで山車全体を飾る。遠見の竜宮城などが付くことがある。

回転(回展) (かいてん)

山車のカラクリの一種。
前方左右にスライドして開く舞台。
正しくは開転舞台と言ったほうが良いと思われる。

火炎山車 (かえんだし)

山車全体を炎や火炎が取り巻いている場面。

加賀美次郎遠光 (かがみじろうとおみつ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。
甲斐源氏の祖とされる源義光の孫 源清光の四男。
加賀美氏の初代であり、武田氏初代 武田信義の弟(あるいは叔父)となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷一帯に所在する加々美荘を本領とした。(Wikipediaより引用)

加賀美流 (かがみりゅう)

南部氏の遠祖、加賀美次郎遠光の創設によるもの。
徒打毬(かちだきゅう)、馬に乗った騎馬打毬(きばだきゅう)などある。

掛け声 (かけごえ)

木遣りの音頭で動き出す山車は、曳き手の元気の良い掛け声で益々賑やかな運行となる。
掛け声(1)・・・木遣りの音頭の間に入れる
         ヨーイ、コレワイノセー。
         (もともとは、ヨーイ、コレお祝いのセーだと思われる。)
掛け声(2)・・・木遣り音頭の終わりに被せ入れる。
         ヨーイ、ヨーイ、ヨイサー、ヨイサー、ヨイサーノセー、
         アッ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレー。
掛け声(3)・・・山車を曳きながら入れる。
         ①ヨーイサ、ヨイサ、ヨーイサ、ヨイサ、
           アッ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレー。
          (または、ヨーエッサ、ヨイサ、ヨーエッサ、ヨイサ、
           アッ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレー。)
         ②ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、もう一つおまけに(昔は、もう一つおまけてと言っていた。)
           ヤーレ、ヤーレ、ヤーレ、ヤーレー。
など、現在は各町内さまざまな掛け声を作り出している。

笠ぬぎ (かさぬぎ)

三社大祭山車行事終了後の慰労会。
祭りが終わり花笠を脱ぐことから「笠脱ぎ会」という。
昔、山車組は消防組単位で山車を出していたことから、だいたいは屯所で行われていたことが多い。
最近ではホテルや公民館などで開かれる。
日程は祭り終了後、翌日や後日の土・日が多かったが、最近は片付けなど全て終わった9月、10月が多いようだ。

笠鉾 (かさほこ)

祭礼の飾り物で大きな傘の上に鉾、なぎなた、造花などを飾りつけたもの。(Goo辞書より引用)
八戸は、神輿渡御が始まった当初から三日町と八日町から二基が出され、両方ともに10人担ぎものであった。朔日町からも4人担ぎの中国の武将関羽雲長の武器、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)の笠鉾が出されていた。

貸し出し (かしだし)

八戸三社大祭が終われば青森県南、岩手県北の秋祭りが始まる。その祭りに山車を貸す。

門付け (かどつけ)

山車組、神楽、虎舞、駒踊りなど各商店や家々を回り、お祝いを頂戴すること。
山車は木遣り、お囃子を、その他は芸を披露する。

歌舞伎 (かぶき) 

山車題材の種類。
日本国有の演劇で伝承芸能の一つ。
重要無形文化財。2005年ユネスコにおいて傑作宣言された。(Wikipediaより引用)

歌舞伎舞踊 (かぶきぶよう) 

山車題材の種類。
歌舞伎演目の中に含まれる劇中舞踊。もしくは、それが独立したもの。(Wikipediaより引用)

カラクリ (からくり)

現在は、山車を大きくするためのカラクリが多いが、昔は見せるためのカラクリが多かったと云われる。

(例1) 豆電球を花や人形の要所に付け、手回し発電機で点滅させて見せた。(廿六日町山車組)
(例2) 花咲爺さんの桜の花を手回し送風機で花びらの紙吹雪を飛ばして見せた。(廿六日町山車組)
(例3) 発煙筒を使い口から煙を出す。(廿六日町山車組)
(例4) 鯉の滝登りでは背景の滝を布で作り、円筒を上下に付け、廻して流れるように見せた。(廿六日町山車組)
(例5) 観音様の身体が二つに折れ曲がり、また起き上がると巨大な観音様になる。(類家山車組)
(例6) 町に電線が通った頃は、滑車でせり上がったり、二つ折りになったりして、高さを見せる山車が多くあったと云われている。
(例7) 現在は前方左右の開転舞台、台車中央左右の引出し舞台、左右に開きながら上がる二つ(二段構え)のせり上がり舞台。そ して背景の起き上がりの付いた山車がほとんどある。

関羽 (かんう)

三社大祭の山車人形。種屋伝右衛門、若狭屋善八、六日町。
中国後漢末期の将軍。
正しくは関羽雲長(かんううんちょう) (162年-219年) 中国三国時代の蜀漢の武将。
「三国志演義」に登場する武将の中でも人気があり、義を重んじたため後世の人間が神格化し、関帝(関聖帝君)とした。
商売の神として世界中の中華街で祭られている。三国志では劉備、張飛との義兄弟の契りは有名。赤兎馬(せきとば)にまたがり、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を武器とする。

企業山車 (きぎょうだし)

町内組以外、企業、会社等から立たされた山車。
これまでに、YS吉田産業グループ
       三菱製紙 八戸工場
       デーリー東北新聞社
       まるみつデパート
       日商月金会が参加をしている。

騎射八道 (きしゃはちどう)

南部通信は加賀美流馬術の継統者であり、藩士たちに馬術を練習させ馬政の振興を図った。
騎馬打毬、流鏑馬、犬追い物、笠懸けなどの馬術。

騎馬打毬 (きばだきゅう)

発祥は紀元前6世紀ペルシャブインド経由でイギリスに渡ったものがPOLO競技となり、日本へは唐と渤海から9世紀、平安の昔に伝わり、現在では皇室と山形、八戸の3ヶ所で継承している。日本らしく赤と白に分かれて馬に乗り、陣笠をかぶり、毬杖ですくい毬を投げ入れる球技。(Wikipediaより引用)

木遣り (きやり)

八戸三社大祭の山車は、木遣り音頭(きやりおんど)で動き出す。
(1) もともと「木遣り」とは、木を遣り渡す(運ぶ)という意味で、重い木等を大勢で運ぶ際、息を合わせるために唄ったものである。江戸時代では、町火消しの鳶達(とびたち)の嗜みとして発展し棟上(むなあげ)や祝儀、祭礼などの練り歌に転用されるに至り、木遣り唄が生まれた。
(2) 明治以降登場する風流山車(ふりゅうだし)は、山車、お囃子、木遣りなど岩手県盛岡市の盛岡八幡宮大祭の風流(山車のこと)から流れを組むと云われている。
盛岡の山車の木遣りの歌詞は、山車の題材の解説となっているが、八戸の山車の木遣りの歌詞は、目出度い(めでたい)祝い唄となっている。
 (例)盛岡八幡宮大祭(義経八艘飛び)
 ヤーレお祝い、ヤーレお祝い、蝶か燕か赤間が浦を、踊る緋おどし大鎧。
 ヤーレお祝い、ヤーレお祝い、渦巻く海峡恐れもなしに、飛ぶや義経さっそうに。
 (例)八戸三社大祭
 ヤーレお祝い、ヤーレお祝い、今年ゃ(ことしゃ)世が良うて、三社の祭、丘は満作、浜又大漁。
 ヤーレお祝い、ヤーレお祝い、めでた、めでたの、若松様よ、枝も栄えて、葉も茂る。

音頭の種類・・・山から木を伐採し下ろすときに唄う木遣り音頭と、鰊などの大漁の魚を網で引き上げるときに唄う大漁音頭の二種類あるが、八戸は南部火消しの流れを組む木遣り音頭を唄う。

木遣りで使う道具・・・扇子

京劇 (きょうげき) 

山車題材の種類。
中国の伝統的な古典劇である戯曲(歌劇の一種のこと)の一つ。(Wikipediaより引用)
花欄(ムーラン)、白蛇伝、三国志、百花公主など。

郷土芸能 (きょうどげいのう) 

山車題材の種類。
地元に根ざした芸能
八戸えんぶり、鶏舞など。

享保 (きょうほ)

日本の元号の一つ元文の前。
1716年から1735年までの期間。
この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。
江戸幕府将軍は徳川吉宗。
享保の大飢饉

金平 (きんぴら)

三社大祭の山車人形。六日町、丁印。
源頼光の家来、四天王の一人坂田金時(金太郎)の子。武勇の金時の子を金平として江戸初期に流行した人形浄瑠璃、金平浄瑠璃で坂田金平の武勇伝に設定。そこから丈夫で強く荒々しいものを「きんぴら」と呼ぶようになった。
唐辛子を利かせたごぼう料理も固くて辛いことから、きんぴらごぼうと呼ばれた。

草刈山王・草刈山露 (正しくは草刈山路) (くさかりさんろ)

三社大祭 山車人形 十六日町、廿六日町、丁印
牛を曳き笛を吹く姿。花人親王は(のちの用明天皇)は山路と名乗って草刈りに身をやつし、その美しい笛の音は牛さえも喜ばせたという。長者の家に奉公した山路はその娘 玉世姫と結ばれるという伝説。

下り人形 (くだりにんぎょう)

江戸(東京)、京都方面より買い入れた人形頭。

宮司 (ぐうじ、みやつかさ)

神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である。神職は職階(職名、職称)。

元老様 (げんろうさま)

もともと山車製作は、消防単位から出されていたこともあり消防組からの山車組が呼ぶことが多いが、大先輩のこと=元老(げんろう)

講談 (こうだん) 

山車題材の種類。
武勇伝、かたきうち、政談など調子をつけて語る寄席演劇。
岩見重太郎、真田十勇士など。

勾欄山車・高欄山車 (こうらんだし)

赤い欄干で四方を囲んだもので、さらに一段高くし欄干で囲み、四方には軒花も飾られ、二重欄干山車とも呼ばれる。

虚空蔵(長者山 三社堂、後の新羅神社) (こくうぞう)

八戸の三社堂に祭られる仏神
正しくは虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)梵名⇒アーカーシャガルバ
または、ガガナガンジャは仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身、象徴とされ知恵の菩薩とも評され、人々の知恵を授けてくれるともいわれる。(Wikipediaより引用)

小太鼓 (こだいこ)

付締太鼓(つけじめたいこ)を使用している。

子供裃着行列 (こどもかみしもぎぎょうれつ)

巫女行列の少女に対し、少年(男の子)が裃はかまを着て神社行列(神明宮)をする。

駒踊り (こまおどり)

馬産地である三八上北、岩手県北地域に分布する芸能で、馬の模型を胴に固定し、跳ねるように踊る舞。
かつて南部藩が行なった野馬を寄せ集める動作になぞらえて作られたもの。一時参加が途絶え、平成になって復活した。八戸市の高館地区の駒踊りが代表的な団体で、三社大祭に参加している。(高館駒踊り)

小屋掛け (こやがけ)

祭の山車を製作するための小屋を作ること。
昔は木材の枝を切った(はらった)「ほけ」を使って柱にした。現在は建設用の足場を使うことが多い。
昔は山車製作の前に小屋掛けをし、祭りが終われば小屋を壊した。これを毎年のように行なった。

小屋開き (こやびらき)

山車製作するため、新年度一番最初に山車小屋を開ける特別な日。
手斧立て(ちょうなだて)と同じ意味もある。

御神馬 (ごしんめ・ごじんめ)

神が騎乗する馬として神聖視された馬。
日本の神社に奉献され、あるいは祭事の際に登場する馬を指す。
馬の種類は特にないが、一般的に白馬を重んじる。

権現様 (ごんげんさま)

中世に東北で活動した紀州熊野系の山伏が神の依り代として獅子頭を〈権現様〉と称して崇め、熊野信仰を広めるにあたってこの権現様で舞を行い、祈祷を行った。
八戸では神楽での獅子頭、山伏神楽(法霊神楽など)の一つ。
獅子頭そのものも権現様と呼ぶ。
八戸三社大祭では歯打が有名。
もともと「権現」は、日本の神の神号の一つで日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。

笹の葉踊り (ささのはおどり)

商宮律(しゃぎり)と呼ばれるお囃子にあわせて、手に笹の葉を持ち踊る踊り。
藩政時代、商家の女児に踊らせ三社大祭の行列に参加していたが明治時期に姿を消した。古文書等を頼りに2004年復活した。
笹の葉を手に15名前後の踊り子がお囃子に合わせて可愛らしい踊りを沿道の観客に披露する。

真田左衛門佐 (さなださえもんのすけ)

三社大祭 山車人形 若狭屋善八、十一屋直吉。
真田幸村の山車人形。
真田信繁(さなだのぶしげ)後の幸村は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。
通称は左衛門佐(さえもんのすけ)で輩行名は源二郎。真田幸村の名で広く知られる。
豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、後世、そこから軍記者、講談、草双紙などが創作され、さらに真田十勇士を従えて活躍する文庫本が読まれ英雄的武将として広く知られた。

猿田彦 (さるたひこ)

八戸三社大祭の行列の先頭を歩き道案内をする先導者。
一本下駄を履き、鼻が高く赤い顔をしている(猿田彦の面、衣装を着て歩く)。猿田彦は日本神話の神。天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神(くにつかみ)。このことから神事行列の先頭(道案内)を歩くのである。

三社先駆 (さんしゃせんく)

八戸三社大祭の先頭を歩く三神社の先立ち。

式三番双(式三番叟) (しきさんばそう)

三社大祭の山車人形。板屋太郎兵衛、丁印。
能、狂言とならんで能楽を構成する特殊な芸能の一つ。能楽の演目から転じて、歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取り入れられている。式三番に要する役者は翁、千歳、三番叟、面箱持で天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祝祷する神事的内容で祝舞である。

四神旗 (しじんき)

中国の神話、天の四方(東西南北)を司る霊獣。
東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。
この霊獣の付いた旗。

商宮律(しゃぎり)

太鼓、三味線、音頭、笛によるお囃子唄。
京都祇園の流れをくむ優雅な音曲。
八戸三社大祭では明治期に絶えていた。平成16年に復活。笹の葉踊りのお囃子。

消防組 (しょうぼうぐみ)

消防団で山車組の基礎が出来ている山車組。
一番組(に組) = 朔日町
二  番  組 = 廿六日町
三  番  組 = 廿八日町、下大工町
四番組(は組) = 鍛冶町
義 組 (い組) = 十六日町
 若    組  = 新荒町
義  働  組 = 糠塚
 わ    組  = 吹上
 龍    組  = 十一日町
和  合  組 = 塩町
元  若  組 = 荒町
第九分団二班 = 売市
第九分団三班 = 新組

白熊毛御長柄槍 (しろくまげおんながえやり)

文政4年 三本奉納され、天保4年に5本に増えた。
この槍は立傘、挟箱、合羽籠などともに大名行列によく組み込まれるもの。能の積毛の中に槍先が組み込まれている。8代藩主南部信真が奉納したと伝えられる。

城山車 (しろだし)

山車全体が一つのお城になっている。

神功皇后と武内宿禰 (しんぐうこうごうとたけのうちのすくね)

神功皇后(しんぐうこうごう)
三社大祭の山車人形 美濃屋宗七郎、丁印
勇敢なる女帝と誉れ高き忠臣。
・神功皇后(成務天皇40年―神功皇后 69年4月17日)は仲哀天皇の皇后。
・日本書記=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
・古事記  =息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねにみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。
応神天皇(八幡神)の母であり、このことから聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫。
三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

武内宿禰(たけしうちのすくね、たけうちのすくね、たけのうちのすくね)
(景行天皇14年―没年不詳)は記紀に伝わる古代日本の人物。
・日本書記=武内宿禰
・古事記  =建内宿禰
宿禰は尊称で名称は勇猛な内延の宿禰の意とされる。
景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代(第12代から第16代)の名天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。
紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
第14代仲哀天皇(ヤマトタケルノミコトの第二子)が、南海道へ視察に族に出かけ、紀伊国の徳勒津宮に滞中、九州の熊襲が反乱を起こしたという報告が入り、天皇は熊襲征伐のために船出し、皇后と合流。檑日宮に到着したとき皇后に神がかかって、天皇に対して熊襲よりも朝鮮半島の新羅攻めるよう託宣(神託)した。
天皇はこれを疑ったため、託宣を果たすことなく崩御された。そこで新羅攻略は皇后によってなされることになった。
神功皇后は、大臣の武内宿禰の助けを得て、新羅国を攻めこれを従わせたという。その帰還の際、お生まれになったのが第15代応神天皇である。神功皇后、応神天皇(赤子)、武内宿禰、この三体の山車人形が日本を代表する題材となっている。

信玄 (しんげん)

三社大祭の山車人形。河内屋八郎兵衛。丁印
武田信玄の山車人形。
武田晴信(後の信玄)は戦国時代の武将、甲斐の守護大名、戦国大名。
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。川中島の戦いが有名。(Wikipediaより引用)

新羅三郎義光命 (しんらさぶろうよしみつのみこと)

新羅神社の御祭神(源義光)
平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂次郎)がいる。
近江国の新羅明神(大津、三井寺、新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。
八戸の新羅神社の祭神であり、神として奉ったので命(みこと)を付けている。

新羅明神(長者山 三社堂、後の新羅神社) (しんらみょうじん)

八戸の三社堂に祭られる神。
正しくは新羅明神(しんらみょうじん)、園城寺の守護神。
円珍(智証大師)が唐から帰国に際し、搭乗船の船首に出現し自らを新羅国明神と称したことによる。
元来は朝鮮半島からの渡来神とも、この地域の地主神であったともいう。

神話 (しんわ) 

山車題材の種類。
古事記や日本書紀に書かれた話。例えば、国生み、岩の岩戸、八岐の大蛇退治 等々。

日月旗 (じつげつのはた)

錦の御旗。
もともとは国旗ともいえる。錦旗(きんき)
太陽と月の分離、陰陽道思想である。

地元の題材 (じもとのだいざい) 

山車題材の種類。
十和田湖、南祖坊と八之太郎、蕪島弁財天、八戸太郎 等。

常泉院 (じょうせいいん)

長者山三社堂の別当山伏の総師。
長者山三社堂(のちの新羅神社)は法善院と同じく、本山派三伏の常泉院が祭祀を管掌していた。常泉院別当の居宅は長者山の麓に構えていた。

神社の縁起 (じんじゃのえんぎ) 

山車題材の種類。
竹生島、新羅神社などの祭神の山車。

水流山車 (すいりゅうだし)

上段から下段にかけ、山車全体を滝で飾り、ふんだんにしぶきを付ける、滝山車とも言う。

素盞鳴尊 (すさのおのみこと)

新羅神社の御祭神(須佐之男命)
日本神話の神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。
多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って、天の岩戸にこもり高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。

スーパー歌舞伎 (すーぱーかぶき) 

山車題材の種類。
三代目 市川猿之助が考案した。現代に合うストーリー、スピード、スペクタルを融合した歌舞伎。超豪華な衣装など山車の題材にマッチする。特別にヒロイン役は、八戸出身の女形歌舞伎役者 市川笑也がいるため人気がある。
ヤマトタケル、リュウオー、カグヤなど

随身 (ずいしん)

三社大祭の行列の中の担当者で、もともとは貴人の外出のとき、警衛と威儀を兼ねて勅宣によってつけられた近衛府の官人。(Goo辞書)
供としてつき従っていくこと。また、その人、おとも。

せり上がり (せりあがり)

山車のカラクリの一種。上下する舞台。

創作物 (そうさくもの) 

山車題材の種類。
山車製作構想者が独自に新しく感えた題材。
大安吉日、三姉妹祝の宴、祝舞など。

僧正坊 (そうじょうぼう)

三社大祭 山車人形 六日町、石屋平七、丁印。
僧正坊(鞍馬天狗)は鞍馬山の奥僧正が谷に信むと伝えられる大天狗である。鞍馬山僧正坊。
牛若丸(義経)に秘術を教えたとの伝説が有名。

下台(屋台) (しただい(やたい))

山車を作るための台車(だいしゃ)。屋台(やたい)とも言った。八戸の場合、もともとは4輪の馬車だった。後にトラックのシャーシになった。

太公望 (たいこうぼう)

三社大祭 山車人形 近江屋市太郎 丁印
中国 周王朝の建国伝説の名将。
姜姓、師尚父、呂尚と呼ばれる。渭水(いすい)のほとりで釣りをしていて、周の文王に出合い、これが先君太公の待ち望んだ賢人であるといったところから、太公望と言われた。文王に召されて周に仕え、武王のとき、殷周革命に際しての武功により斉候に封じられた。

建物山車 (たてものだし)

大きな門や城の一部を土台とする。背景に神社や寺などを製作するものもある。

為朝鬼ヶ島 (ためともおにがしま)

三社大祭 山車人形 西町屋、人形三つ物
源為朝、鬼2体 3体の人形
源為朝は平安時代末期の武将。源為義の八男。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
身長2mを越える巨体のうえ、気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で、父の為義に持て余され、僻地の九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。
保元の乱では、父とともに崇徳上皇方に参加し強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかし、そこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。しかし、生きて鬼ヶ島、琉球を支配したとの伝説が残る。為朝伝説は鬼ヶ島の住人は為朝剛弓を引こうとして出来なく、苦笑いしたという伝説がある。

太神楽 (だいかぐら)

獅子舞の一つ。
各神社行列の先頭を歩く。二人の先払が歩き、大きな赤色の獅子頭を被り、右手に五色の幣束を持ち、後に小供の幕取役が付く。太鼓、笛、手平鉦のお囃子が後方を歩く。

出し (だし)

出し=山車
日本で祭礼に際に曳いたり担いだりする出し物の総称。花や人形などで豪華に装飾がされていることが多い。
地方によって呼称や形式が異なり曳山(ひきやま)、祭屋台(まつりやたい)、山(やま)などとも称される。
神幸祭などの行事では、この山車が町の中をねり歩き行列となることもある。
厳密に言うと、山の形状を模したり、上に木を立てて山の象徴としたものを「山」、それらがない屋根の付いた曳き物が「屋台」と分類されることが多い。

山車絵師 (だしえし)

昭和58年 八戸博物館館長・郷土史研究家 故・正部家種康氏が名人称号として夏坂和良氏に与えた名前。(現在唯一1人)

山車絵図 (だしえず)

山車絵師のみが描く、山車の完成絵図面。 郷土史研究家 故・正部家種康氏(昭和58年命名)

山車行列順序 (だしぎょうれつじゅんじょ)

お通りは、
神明宮・・・順序が決まっている。廿六日町→新荒町→上組町→根城新組→売市→吉田産業グループ→白山台の順。
龗神社・・・くじ引きで順序を決める。
新羅神社・・・八戸共進会→糠塚→長横町→六日町→類家→十六日町→鍛冶町→八戸市職員互助会→吹上の順序を先頭が翌年、最後尾となるローテーションとなっている。

山車組 (だしぐみ)

三社大祭に山車を製作して附祭として参加する組。現在は27組。

山車製作師 (だしせいさくし)

昭和58年 八戸博物館館長・郷土史研究家 故・正部家種康氏が名人称号として、山車作りの名人と言われた 故・類家孝氏に与えた名前。(現在は山車製作師の称号を持つ人はいない)

長者山 新羅神社 (ちょうじゃさん しんらじんじゃ)

青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社。
重要無形民族文化財の八戸三社大祭や八戸えんぶりで著名。
祭神 素戔鳴尊と新羅三郎源義光命を主祭神とする長者山には古くから様々な祭祀が行われて、八戸藩初代藩主 南部直房によって虚空蔵菩薩が勧請され「衹園」と俗称された堂祠を前身とし、新羅神社としては延宝6年(1678年)に2代藩主 直政が藩家の守護と領内の五穀豊穣と領民の安穏、無病息災を祈念する祈願所として山上に南部氏の遠祖である新羅三郎義光命を勧請、「三社堂」または「虚空蔵堂」と号したのに創まる。
以後、八戸藩奥南鎮守として歴代藩主から尊崇され、また造営事業等は藩直営で行われる例とされた。
元禄7年(1694年)に社殿の改築がなされたが、文政10年(1827年)にも8代藩主信真によって再改築が行われ(現 社殿)この時には桜の馬場を開設して例祭に打毬を奉納するようになった。
明治初期の神仏分離に伴い、明治2年(1869年)に社号を「新羅神社」と改めて郷社に列し、明治14年の明治天皇の東北巡幸に際しては行幸があり、騎馬打毬が天覧に供された。
後に県社へ昇格し、昭和51年(1976年)に現社号である「長者山 新羅神社」と改称した。(Wikipediaより引用)

丁印 (ちょうじるし)

江戸時代は、町のシンボルである傘鉾と同じ形の丁印が出ていた。
(例1)龍亀に宝の玉を乗せた型 (八日町)
(例2)三国志の関羽雲長の武器、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)の型 (朔日町)

手斧立て (ちょうなだて)

大工が工事にとりかかる最初の日に行う儀式。(Weblio辞書)
山車作りの前に行う安全祈願式(八戸三社大祭)作業開始式。
手斧(ちょうな)=木工具の一種で釿とも書く。「ておの」ともいう。
アッズがこれに属する。ヨーロッパでは新石器時代に、西アジアでも前5000年頃から使われた。日本では中国、朝鮮から弥生時代にもたされた扁平片刃石斧がこれに該当する。

附祭 (つけまつり)

祭行事に付随した様々なもの。八戸三社大祭では山車のこと。

手古舞 (てこまい)

(1)芸者が祭礼に男装で金棒を引き、神輿や山車の先駆をすること。江戸時代から行われた。
(2)本来、山王祭や神田祭を中心とした江戸の祭礼において、山車を警護した鳶職のこと。また、もとは「てこまえ」と言った。現 在一般的には、この「手古舞」の姿を真似た衣装を着て、祭礼その他の催し物で練り歩く女性たちのことをいう。
(3)八戸三社大祭では、ジャンガラ持ち、金棒引きなどといわれている。

伝説 (でんせつ) 

山車題材の種類。
大江山酒童子や俵藤太の百足退治、羅城門等

豊受大神 (とようけのおおかみ)

新羅神社の御祭神
伊邪那岐命(いざなきのみこと)の孫、和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子。
五穀をつかさどる女神で伊勢神宮の外宮に祭られている。

虎舞 (とらまい)

東北の太平洋岸に多く分布し、火伏せや航海安全に関する信仰として伝承されてきた。
八戸市内では鮫、湊、小中野、新井田等地域に伝えられている。八戸三社大祭の行列の中で披露される。
虎役。道化役。「ササラ」を鳴らして虎を囃したてて戯れる稚児、八戸の虎舞はたくさんのレパートリーを持つ鮫の神楽から独立したもので、もともとは加藤清正の虎退治を舞踊化したものと言われている。
ユーモラスでアクロバティックな演技に人気のある芸能。虎に頭を噛まれることで、無病息災や頭が良くなるなどの御利益があるとされている。
八戸三社大祭には、文政8年(1824年)から参加している。

屯所 (とんしょ)

消防団の人達が集まる所。屯所(たむろじょ)
消防団の山車組は屯所で昔から山車を製作するところがほとんどである。

童話 (どうわ) 

山車題材の種類。
おとぎ話。桃太郎、かぐや姫、一寸法師など

中日(山車夜間運行) (なかび(だしやかんうんこう))

祭二日目(現在は8月2日)
長者山桜の馬場では文政10年に始まる「加賀美流騎馬打毬」が行われる。(青森県無形民俗文化財)
夜は山車のみの夜間運行が行われる。照明に写し出された昼とは違う山車の魅力が再確認させられる。

波山車 (なみだし)

海や水の場面。波しぶきを使う水面の場面。

南部信真 (なんぶのぶまさ)

安永9年2月1日(1780年3月6日)-弘化3年12月29日(1847年2月14日)。
陸奥八戸藩の第8代藩主。第6代藩主 南部信依の三男として江戸にて生まれる。幼名は安吉のちに主水、左衛門尉。(Wikipediaより引用)
信真は野村軍記を「御主法替主任」に任じ、歴代藩主の中でも徹底した藩政改革を行った。

錦絵 (にしきえ)

山車題材の種類。
江戸時代に確立した浮世絵版画の最終形態である。明治30年代の頃まで多く描かれた。(Wikipediaより引用)
地震なまず、寿柱立の躰など。

仁木弾正 (にっきだんじょう)

山車題材の主役
歌舞伎の伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)仙台、伊達騒動の話。その歌舞伎の登場人物。
お家の乗っ取りをはかる悪人で実悪のてんけいてきな役どころ。
仙台藩の家老「原田甲斐(はらだかい)」をモデルとする。(Goo辞書)八戸山車では仁木弾正のネズミ退治となっているが、正しくは仁木弾正はネズミ妖術を使う忍術使いなので、退治ではない。

人形師 (にんぎょうし)

もともとは人形を製作するだけではなく、山車全体を作る人という意味だったが、最近では人形の頭を作る人と呼ばれるようである。

禰宜 (ねぎ)

神職の職名の一つ。「祢宜」とも書く。
一般神社では宮司の下の位。権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職名。(Wikipediaより引用)

野村軍記 (のむらぐんき)

安永3年(1774年)-天保5年10月20日(1834年11月20日)江戸時代の八戸藩主。名は宗軌(むねみち)、後に武一。
文化元年(1804年)、大目付に任じられ、江戸藩邸の経費節減、新田開発、藩の産物を統制などにより窮乏した藩財政の立直しを図ったが、天保5年(1834年)に久慈、軽米通稗三合一揆が起こり失脚。(Wikipediaより引用)
文政8年(1825年)大目付役を兼ねて寺社奉行であったとき、町々にふれて祭り(後の八戸三社大祭)を盛大に行わせ、鮫町の虎舞を参加させた。また、この年の9月には騎馬参拝を行うことになり、甲冑に身を固めた騎馬武者、徒歩武者や遥か幟や馬印を揃え戦場からの凱族姿で祭りの行列に参加させた。現在の武者押(むしゃおし)の始まりである。

八戸直義 (はちのへなおよし)

八戸氏は南部氏の一族で盛岡藩士の氏族。本姓は源氏。
家系は清和源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐南部氏流にあたる。(Wikipediaより引用) 八戸根城を根拠地としたため、根城南部氏・八戸南部氏ともいい、また江戸時代に遠野に移ったため遠野南部氏ともいう。

八戸直義 1602年2月5日~1675年1月30日
別名 直栄 佐渡称六郎 八戸二十一代当主、八戸祢々の娘婿となる
父 新田政広
養母 八戸祢々 
母 小軽米之俊の娘
室 八戸直政(八戸祢々)の娘
八戸二十二代当主 陸奥国根城南部・八戸家

華屋台(見番屋台) (はなやたい(けんばんやたい))

文政元年(1819年)屋台芸者車引(現在華屋台のもと)が神輿行列に加わる。
花街として栄えた小中野地区、鮫地区の芸妓が乗る屋として文政時代から行列に参加していたと言われています。
その後、戦争の影響や芸妓の減少により、祭りに参加しない時期が長く続いたが平成に入ると市内の舞踊の師匠などの手により復活を遂げた。
昔は祭行列の最後尾を担当し、また様々な踊り、音曲などのご披露の門付が行われていたが、現在は山車行列の最後尾を飾り、八戸小唄などが披露されている。

八戸 神明宮 (はちのへ しんめいぐう)

青森県八戸市廿六日町に鎮座する。
天正19年(1591年)の九戸の乱のころ、九戸政実家臣である三田村四郎により三戸郡金濱村(現 八戸市金浜)に遷座。
次に新井田村今町、中居林村へ遷座されたが勧請よりここに至るまで不詳。
寛文9年(1669年)に南部直政の信仰により、長者山に社殿造営し遷座。主祭神は天照皇大神例祭日は10月16日。
宝永6年(1709年)、豊受大神、八幡大神(第15代応神天皇)など春日大神を勧請合祀し、現在地に遷座する。

八戸三店 (はちのへさんたな)

八戸藩の特権商人。代表する三つの商家。
三社大祭の山車人形を所有していた。
近江屋、大塚屋、美濃屋。

八戸藩 (はちのへはん)

八戸藩(はちのへはん)は陸奥国三戸郡八戸に藩庁を置いた南部氏族の藩

八戸藩目付所日記 (はちのへはんめつけどころにっき)

祭礼に関する詳細な記録書。
総鎮守法霊祭礼の祝賀行事の準備から終了までを書き留めている。

花笠 (はながさ)

特に小供達が被る花で飾られた笠。大人も被ることもある祭用花笠。昔の花は堅木(けんぎ)で出来ていた。現在はビニールの花となっている。

半纏 (はんてん)

和服の一種で羽織を簡素化した丈の短い上着。(Wikipediaより引用) (半天)、(祭半天)。山車組揃の半天。

バッタリ(バッタン、パタラン等々) (ばったり、ばったん、ぱたらん)

山車後部に付いた起き上がるカラクリ背景のこと。
もともとは桜や紅葉などが中心だったが、現在はそれに加えて岩や滝、飾り背景など登場するようになった。
三戸の山車のドンデンが元になっていると思われる。

引き出し (ひきだし)

山車カラクリの一種。
山車中央左右に付く引き出し舞台。

神箒籬 (ひもろぎ)

「ひ」は霊、「もろぎ」は籬(まかぎ)で神を守る意とされる。神霊が憑依している山、森、老木などの周囲に常磐木を植え、玉垣を結んで神座としたもの。後には室内、庭上に常磐木を立てたものをいった。

笛 (ふえ)

篠笛(しのぶえ)を使用している。
篠笛・・・お囃子用(古典調)と唄用がある。お囃子用は演奏もしやすくするために、指穴は均等の間隔で同じ大きさの穴になっている。
笛の調子(音の高さ)・・・一本調子から十二本調子までの種類がある。その種類が分かるように、漢数字で笛の先端に書かれている。各町内毎にそれぞれ調子は違う。

副斎主 (ふくさいしゅ)

別名:祭主
二斎主を保佐する。祭祀を主宰する人の保佐する人。

船山車 (ふなだし)

山車全体が一艘の船で出来ている。船上の場面。

風流踊 (ふりゅうおどり)

文政10年から参加と伝えられる芸者衆の踊り組。湊から二組、鮫から二組参加したようだ。
金棒引、踊子、太鼓、三味線などの行列。現在はない。

仏話 (ぶつわ)

山車題材の種類。
仏、釈迦、如来、明王、菩薩等仏教の話。

別当 (べっとう)

八戸では別当様(べっとうさま、べっとさま)
社寺(特に神社)神社を管理するために置かれた社の長(主催者)。宮司。
平安朝以後江戸時代まで親王家・摂関家・大臣家・社寺などの特別な機関に置かれた長官。特に検非違使(けびいし)庁長官。

弁慶 (べんけい)

三社大祭の山車人形。三日町、能登屋長右衛門。十三日町、中居屋万作
正しくは武蔵坊弁慶、平安時代末期の僧衆。
源義経の郎党。五條の大橋で義経と出会って以来、義経に最後まで仕えたとされる。(Wikipediaより引用) 怪力無双の荒法師として名高い。

法善院 (ほうぜんいん)

法霊社、山伏の総師(別当)の名。
坂本岩見に改名する。
行列では頭巾を被り黄色の鈴懸(すずかけ)に大小の刀を差す。

法霊神楽 (ほうりょうかぐら)

山伏による神楽の一つで龗神社(祭神は山伏の法霊様であることから)にて伝承されてきた法霊神楽。
神楽の中心演目は、獅子頭「権現様」(ごんげんさま)を持って舞う権現舞で、数十人の舞手が獅子頭を一糸乱れず打ち鳴らす「一斉歯打ち」に心が清められる。八戸三社大祭では、龗神社の行列に参加し、5月第二土曜日とその翌日に龗神社で行われる「法霊神楽祭」でも法霊神楽の様々な山伏の技を堪能することが出来る。
主に男性が行うが、平成11年から女性の舞手も登場して活躍している。

法霊大明神 (ほうりょうだいみょうじん)

鎌倉時代、現在も神職を務める坂本家の7代目である「法霊」という修験者が熊野や京都の聖護院などで修業の後、東北地方から青森県内、様々な地域を説いてまわりながら八戸に戻った事から現在の龗神社としての縁起が始まっていく。
法霊が八戸に入った時、一帯は日照続きで作物の栽培に深刻な影響が出ていたため、農民達は雨乞い祈祷に優れた法霊に依頼し、恵みの雨を願ったが命がけの祈祷の甲斐むなしく雨を降らせることが出来なかったという。
それに心を痛めた法霊は三崎社内の池に自らの身を投げ、自分の命と引換えに雨を降らせてほしいと願ったところ、とたんに法霊の御霊が龍に化身し天に登り、にわかに空に暗雲が立ち込めて恵みの雨を降らせたと言い伝えられている。この御神徳に心から感謝した人々は御霊を三崎社に合祀して法霊明神と崇め、農耕、豊作、降雨、晴天の守り神として祀ったとされている。
また京都の聖護院門跡には、法霊が修験者として行なった記録が残っており、東北地方に点在する法霊(法領、法量など様々な表記がある)という地名は八戸に至るまでの間に修験者の法霊が説いてまわった地域であろう。江戸時代に入ると盛岡藩により再建され、盛岡、八戸南部双方の厚い崇敬のもと八戸城の館神として本丸内に遷座された。
その後、万治元年(1658年)南部2代藩主 南部重直より20石の寄進を受けている。
寛文4年(1664年)八戸藩が成立すると、法霊大明神を本丸内より現在地に遷座して規模拡張を行い藩神と崇めて御領内総鎮守とした。
江戸中期の享保5年(1720年)法霊社に祈願した結果、豊作に恵まれたことへの感謝として翌年、享保6年(1721年)法霊社の神輿を長者山虚空蔵堂(現 長者山新羅神社)へ渡御して2日後還御する神事が執り行われた。この神事が八戸三社大祭のはじまりである。
八戸藩政期は藩主の祈祷所として城内この丸に鎮座していたので一般の領民が参拝できる神社ではなかったが、法霊社祭礼(現在の八戸三社大祭)の際は、午前8時から午後4時までの間だけ一般領民の参拝が許されたという。

布袋 (ほてい)

三社大祭の山車人形。六日町、石屋平七、丁印。
唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。
水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。(Wikipediaより引用)

誉田別命 (ほんだわけのみこと)=八幡様、応神天皇

新羅神社の御祭神
日本の第15代天皇
父は仲哀天皇で母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされる。神功皇后が三韓征伐の帰途に築紫の浜で生まれたとされる。

祭衣裳 (まつりいしょう)

大人(1)・・・豆絞り、浴衣、ステテコ、白足袋、雪駄
大人(2)・・・半纏、股引、黒足袋、雪駄
大人(3)・・・半纏、Tシャツ、白ズボン、白半ズボン、地下足袋
大人女性(4)・・・浴衣、おこし、草履
大人女性(手古舞)・・上着用着物、袴下着物、たっつけ袴、足袋、草履
子供・・・花笠、半纏、浴衣(八戸職員互助会の子供)

祭の日程の変遷 (まつりのにっていのへんせん)

享保6年(1721年)  法霊社(現在の龗神社)の神輿が八戸城下を巡り、長者山虚空蔵学(現在の新羅神社)に渡る。
文政8年(1825年)  法霊社祭礼の日程が旧暦7月20日から3日間に変更になる。
弘化3年(1846年)  法霊社祭礼の前日に夜祭を始める。
明治43年(1968年) 新暦9月1日-9月3日に変更される。
昭和35年(1960年) 8月21日-8月23日の3日間に変更となる。
昭和41年(1966年) 三社大祭の名称が「はちのへ祭り」に変更される。8月20日(前夜祭)が始まる。
昭和50年(1975年) 八戸三社大祭の名称に戻される。
昭和57年(1982年) 7月31日前夜祭、8月1日-8月3日に変更される。
平成15年(2003年) 8月4日を後夜祭として加えることにした。

祭りの変遷 (まつりのへんせん)

祭りの変遷やがて、この祭りには、八戸藩の有力な商人が買い入れた人形を載せて担いだ「屋台」や「虎舞」など、町民で編成した行列が参加するようになり、まちの安泰や豊作を祈願する大規模祭礼として発展していきました。
明治17年(1884)には新羅神社が、その5年後には神明宮の行列が加わって三社の祭りとなり、それまでの同じ人形を屋台に載せるスタイルから、毎年新しく作った山車を運行する形へと変化し、現在の祭りの原型となりました。
(写真:江戸時代の屋台山車「太公望」。豪華絢爛な現代の山車とは違い、三社大祭の長い歴史の重みを感じさせます。普段は龗(おがみ)神社にて通年展示しています。)

神輿 (みこし)

祭礼の時に御神体を安置して担ぐ輿(こし)。神輿(しんよ)。

神輿渡御 (みこしとぎょ)

正式には、神幸祭(しんこうさい)といい神霊の行幸が行われる神社の祭礼。
多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。神輿や風輦の登場する祭礼のほとんどは神幸祭の一種であるといえる。
神幸祭は「神の行幸」の意味では、広義には行幸の全体を狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。

巫女行列 (みこぎょうれつ) (稚児行列)

巫女=神に仕える(未婚の)女性。神楽、祈祷を行い神託を伺い口寄(くちよせ)をする者。
八戸三社大祭、神明宮行列では、専用の車台に乗り(昔は人力車)10種類の雅楽等の楽器を手に持ち、赤い日傘を差され行列する少女。

休み太鼓 (やすみだいこ)

祭囃子の流れの中、途中で止めたとき、太鼓のみで特別な囃しをします。祭囃子が終わる時、木遣音頭を取る前に入ることが多い。

屋台山車 (やたいだし)

八戸では屋根の付いた車付の山車。中に人形を飾り、祭り行列に参加した。昭和に入ると姿を消していった。明治に入ると毎年作り変わる風流(ふりゅう)となっていく。

流鏑馬 (やぶさめ)

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術、稽古、儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下がるにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになった。(Wikipediaより引用)

山伏 (やまぶし)

山中で修行する修験道の行者。修験者。(Wikipediaより引用)

浴衣 (ゆかた)

八戸三社大祭の正装。
もともと、秋祭りであるから浴衣が正装である。
浴衣=和服の一種である。通常の和服と違い、長襦袢を着用せず素肌の上に着る略装である。

読本 (よみほん)

山車題材の種類。
江戸時代後期に流行した伝奇小説。
寛政の改革以降流行し、文化文政の頃全盛となり明治になっても活字として流布し読み継がれた。(Wikipediaより引用)
曲亭馬琴や山東京伝といった作者の作。
南総里見八犬伝、椿説弓張月など。

依代 (よりしろ)

神霊が依り憑く対象物のことで、神体などを指すほか神域を指すこともある。(Wikipediaより引用)
神道において神社や神棚以外の場所において祭りを行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

欄干山車 (らんかんだし)

土台に橋や建物の欄干が山車全体に作られる。欄干物とも言われる。

歴史上の人物 (れきしじょうのじんぶつ)

山車題材の種類。
源義経や武田信玄 等々。

若者連中 (わかものれんちゅう)

町内山車組初期~昭和頃まで
大澤多門が、明治期に消防組単位で山車を祭りに出すように通達があったと伝えられる。
そのことから火消しの若衆達の集団が山車組となったので、山車組の名前を若者連中(わかものれんちゅう)、また若者連(わかものれん)と言った。(六日町=魚町は特別の例外であった。)

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